新港郷登雲書院の遺跡スケジュールに追加
最終更新時間:2021-07-22発表機関:企画科
登雲書院は昔台湾において嘉義にある4つの書院、唯一嘉義県に設置して、その他の3つはすべて嘉義市内にある。登雲書院が文昌国民小学校に改築され、およびもう1つの玉峰学院は保生大帝を祭る震安宮に改築されたほか、残りの2つの書院がほとんど壊されました。
登雲書院の成立は清道光2年(西元の1832年)で創立して、その時登雲閣と言って、ずっと道光15年(西元の1835年)に至って、やっと更に講学の場所の規模がある登雲書院に変えました。「雲登」この名前は多く貢献し、とても多くと地方の士族が力を合わせて資金を集めて学院を創立し王得禄将軍に捧げ、「とんとん拍子に出世する」の意味から取ります。しかし、70年後に、登雲書院の場所は2度の大地震に遭遇して廃墟になられて、ずっと50まで長年以降に、つまり民国の52年(西元の1963年) やっと遺跡の上で今の文昌の国民小学校を創立しました。
登雲書院が新港の文章の風格を作ったのは真っ盛りで、手厚い文化教育の基礎を打ち立てて、当時無数な人材を育成しだして、今なおも教育の気風が持続している。たくさんの人は甚だしきに至っては登雲書院の場所を新港を求心力が凝集して「社がつくる」の重要な原因の中の一つを行わせるですだと見なすに。しかし残念なことは、登雲書院が残されたものは、ただ1基の道光15年の結ぶ「登雲学院を新たに作って募金の有名な碑を寄付する」だけが残って、初めは学校を作る時が今の文昌の国民小学校のプールの下から掘り出したので、学校の入り口に入った後の右側の花や木のある庭の内でたたずんで、ステンレスでアクリルと外と適切に保護しています。今の文昌の国民小学校は書院の教育目的を伝承して、それがと雲の講学の場所間の歴史的意味に登る以外、学校の内で1棟の中国式の校舎の2階、更に嘉義県の毎年の催しの孔子大典に弔いをする孔子廟の所在地になります。